誰もが一度はその名を聞いたことのある人物、聖徳太子。
しかし「何した人?」と聞かれて、具体的に答えるのは案外難しいのではないでしょうか。
「冠位十二階や十七条憲法を定めた人で・・・」と教科書どおりの答えはいえても、「それの何がすごいの?」と聞かれると、首を傾げてしまいませんか?
聖徳太子は後世に大きな影響を残した飛鳥時代の政治家なんです!
この記事では、聖徳太子の功績とその人生をわかりやすく紹介していきます。
ぜひ最後まで読んで、聖徳太子の魅力を知ってください!
(生前の名である「厩戸王」の表記も広まっていますが、この記事では呼び名を「聖徳太子」で統一しています。)
※本記事は、多様な諸説の中から現時点で有力とされる説をベースに、全体の流れを掴みやすいよう要約・解説しています。未解明な領域も多く、今後の研究によって解釈が更新される可能性があります。専門的な研究内容を簡潔にまとめた入門記事としてお楽しみください。
聖徳太子、用明天皇の第二皇子として生まれる

時は574年。聖徳太子は、31代目の天皇・用明天皇の子として誕生しました。
この時代、まだ「日本」という呼び名はありません。「倭国」と呼ばれていましたが、国際的に正式な国とは認められておらず、東アジアの中でも遅れた国でした。
その倭国を「日本」と呼ばれる正式な国へ導いていった政治家の一人が聖徳太子だといわれています。
まず簡単に、時代背景を説明しましょう。
当時、政治の中心になっていたのは大和政権です。しかし豪族同士の争いは常に絶えませんでした。
中でも「仏教をもとに新しい国造りがしたい蘇我馬子」と「古来からの神を中心にし、仏教は排除したい物部守屋」の二大勢力が激しく対立します。
その争いは、やがて、天皇の座をめぐる大王家の戦いにまで発展していきました。
聖徳太子が生まれたのは、一族同士で権力をめぐり血を流す時代だったのです。
事実、太子自身も、14歳の頃に蘇我氏側として戦争に参加しています。
聖徳太子、摂政になる

戦争は蘇我馬子側の勝利で終わりました。
しかしその最中、太子は13歳にして父である用明天皇を病で失い、さらに戦によって身内を何名か亡くしました。
その後、太子の母方の叔父にあたる崇峻天皇が、32代目の天皇として即位します。
ところが即位からたった5年ほどで、崇峻天皇は暗殺されてしまいました。
次の天皇は誰になるのか?
大王家の血筋の人々が、戦争や病、暗殺によって次々と失われてしまったため、当時の人々は悩んだことでしょう。
最終的に、推古天皇が33代目の天皇として即位しました。日本初の女性天皇です。
そして太子は、日本初の摂政になりました。摂政とは、「天皇が子どもや女性、病気といった理由で政治を行えないとき、代わりに国政を行う統治者」のこと。推古天皇のサポート役に任命されたのです。
なんとこのとき、太子はわずか20歳。
昔の人は成人や結婚も早いとはいえ、20歳の若さで国を背負った聖徳太子の重責は大きかったと考えられます。
聖徳太子、国家体制を整える

推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子の3人体制での政治がスタートしました。
ここから教科書にも載る「冠位十二階」や「十七条憲法」などの、太子の政治活動が始まっていきます。
順番にみていきましょう。
冠位十二階 ~日本初の能力評価制度でモチベアップ~
603年、聖徳太子29歳。あの有名な制度「冠位十二階」を定めます。
冠位十二階をざっくり説明すると、「家柄ではなく個人の意欲や能力をもとに評価し、位を定めよう」という制度です。
十二段階の位に分けたため、冠位十二階という名前になりました。
それまで役人は、家柄によって権力の強さが決められていました。特定の地位を、子孫が代々受け継いで独占していたのです。
当時の中国「隋」では、科挙という試験に合格した者であれば、身分に関係なく誰でも役人になれるという制度をすでに定めていました。
聖徳太子は、高句麗からやってきた僧・慧慈から、こういった国際知識を教えてもらっています。
自国の遅れを知ったからこそ、太子は改革を進めたと考えられています。
もちろん、すぐに実力主義社会になったわけではありません。それまで世襲制だった豪族たちの強い反発もあります。
それでも、意欲や功績によって評価されるしくみを作ることで、太子は国を変えていこうとしました。
十七条憲法 ~現代では当たり前? ルールはきちんと定めよう!~
冠位十二階を定めた翌年、太子は「十七条憲法」を説きます。
これは、役人たちが守るべきルールや道徳を17つの漢文で示したものです。
「和を以て貴しとなす」という出だしが有名ですが、これだけではピンときませんよね。
内容の一部をわかりやすく現代の言葉で説明するなら、以下のようなものです。
- 人と仲良くして、ケンカはしないこと。よく話し合っていきましょう。
- 役人は、秩序や礼儀を大切にしましょう。
- 欲を出して賄賂をもらってはいけません。訴訟は公平に裁きましょう。
- 何事にもまごころを込めて仕事しましょう。
- 自分が必ず賢くて、人が必ず愚かということはありません。誰かが怒ったときは、自分にも悪いところがなかったか、考えてみましょう。
現代からみると、「えっ、なんでそんな当たり前のことを」と思ってしまいそうですが・・・。
当時は、この十七条憲法が説かれるまで、役人が守るべき規則というものがありませんでした。それだけこの時代の日本は国としての制度が整っていなかったのです。
聖徳太子が十七条憲法を示すことで、ようやく「役人は国全体のことを考えるべし」という基盤ができあがりました。
十七条憲法は、太子の死後も、政治理念の先駆けとして日本の歴史に影響を与えています。
遣隋使派遣 ~聖徳太子のしたたかさが光る大チャレンジ~
607年、聖徳太子33歳。
小野妹子を倭国の代表として、大国「隋」に送ります。遣隋使派遣の主な目的は2つです。
- 倭国を正式な国家として認めてもらう
- 隋の技術や政治制度などを学ぶ
実は600年にも、第一回目の遣隋使が派遣されています。ところが当時の皇帝には「道理のわからない、野蛮で遅れた国」といわれ、相手にされませんでした。
その経験もあり、600年から607年の間、冠位十二階や十七条憲法といった政治システムの整備をしてきたのです。
第二回の遣隋使派遣は、命がけの大チャレンジでした。
そもそも当時の小さな木造船で海を渡ること自体が命がけなのですが、それ以上にイチかバチかの大勝負だったのは、聖徳太子から預かった国書の内容です。
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」
こちらが隋の皇帝に渡された国書の出だし。聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。
何が問題なのかというと、「倭国 = 日出づる処の天子」と書き、「隋 = 日没する処の天子」と表しているところ。どちらも天子であり、倭国と隋の関係性は対等だという宣言でした。技術や文化を教えてもらいたい立場でありながらの対等宣言。なかなか大胆な物言いだと感じませんか?
しかも当時の隋の皇帝、煬帝は暴君として知られる人物。もともと隋の皇帝は「唯一の統治者である」という考えをもっていて、周辺国を支配下としており、朝鮮半島への侵略や圧迫を進めてもいました。
もし失敗すれば、倭国が隋に目の敵にされるかもしれない。小野妹子ら遣隋使が首をはねられるかもしれない。
事実、煬帝は国書を読んで「無礼だ!」と大激怒したといわれています。妹子たちは相当緊張したことでしょう。
しかし、聖徳太子は世の中の動きから、煬帝がこの手紙を受け入れざるを得ないことを予測していたと考えられています。
隋はこのとき、高句麗との戦い直前。もし高句麗と倭国に手を組まれては困ります。倭国を敵に回さず、仲良くしておく必要がありました。
遣隋使の派遣はついに成功し、煬帝はこの宣言を受け入れ返礼の使者を送りました。
こうして倭国は、国際社会の一員としての一歩を踏み出したのです。
ちなみに諸説ありますが、倭国が日本と呼ばれるようになったのは、この「日出づる処の天子」発言がきっかけだったのではないかともいわれています。
仏教を日本に広める ~仏が太子のよりどころ~
聖徳太子は生涯にわたって仏教を信仰していました。
日本へ仏教を根付かせたことで、「日本仏教の祖」とも呼ばれています。
仏教派の蘇我馬子が血縁者だったこともあり、太子は若いうちから仏教になじんでいたようです。
14歳で参加した戦争の際にも、祈りをこめて仏教の守護神四天王の像を彫ったといわれています。
有名なエピソードとしては、世界最古の木造建築物として世界文化遺産に登録された、法隆寺の建立がありますよね。
その前にも、太子は四天王寺という寺を建立しています。この四天王寺には、施薬院や療病院といった、高齢者や病気の人、身寄りのない人、困窮して飢えた人たちを救うための施設があったそうです。
これが真実かは今もはっきりとはわかっていませんが、太子の「あまねく人々を救いたい」という想いの根底には、仏教の考え方がありました。
十七条憲法もまた、仏教や儒教の考えを取り入れて作られたものです。
仏教は、太子の国造りの支えでした。
日本における仏教興隆に尽くした太子は、死後に聖人として敬われ、彼自身が信仰の対象になっています。
聖徳太子、引退する

遣隋使の派遣が成功したのち、聖徳太子は政治の第一線から退いたとされる説が有力です。
はっきりと「引退」と記録に記されてはいませんが、遣隋使派遣以降、太子の目立った政治活動はありません。
斑鳩という、飛鳥から離れた土地にこもり、仏教の学びに没頭したといわれています。
そもそも太子が斑鳩に宮を造営し始めたのは27歳のとき。宮が完成した605年、太子31歳のときにはすでに、この斑鳩に住まいを移していたそうです。
この斑鳩、天皇の宮がある飛鳥からはなんと20kmほど離れています。太子は毎日、斑鳩から飛鳥まで2時間かけて通勤していたというから驚きです。
なぜこんなに遠い場所に、太子はわざわざ移り住んだのか?
有力な説としては2つ。
- 難波の港が近い斑鳩に移り住むことで、外交のためのルートを掌握したかった
- 蘇我氏と対立し、朝廷内で孤立していたため、離れた土地に住みたかった
太子は今なお謎の多い人物で、どちらが正解ともいえません。
しかし、晩年の太子の心境を考察させる有名な言葉があります。
「世間虚仮、唯仏是真」
世間はむなしいもの。この世界で、仏だけが真実――。
晩年の太子の政治的立場には諸説あります。しかし、理想を追いかけ大きな改革をたくさん行えば、周囲の反感もあったと考えられます。晩年は、政界の戦いから離れ、大好きな仏教を学びながら静かに暮らしたかったのかもしれませんね。
そして622年、48歳の若さで聖徳太子は亡くなります。
聖徳太子の死因については、未だはっきりしたことはわかっていません。天然痘で亡くなったという説が有力ですが、暗殺という説や、自殺という説も出ています。
日本書紀には、聖徳太子の死を知った人々が嘆き悲しむ様子が記されていました。
民を思い国のために尽力した皇子の姿を、多くの人々が慕っていたのでしょう。
【まとめ】聖徳太子は日本の礎を築いたスーパー皇子!
- 31代目の天皇・用明天皇の子として生まれる。
- 20歳にして日本初の摂政となる。
- 推古天皇、蘇我馬子とともに政治を行う。
- 冠位十二階を定めて、家柄ではなく実力を重視する。
- 十七条憲法を制定し、役人の心構えを示す。
- 遣隋使として小野妹子たちを派遣し、倭国を対等な国として認めさせる。
- 仏教を日本に広める。
豪族同士の争いが絶えなかった倭国。しかし聖徳太子が摂政だったあいだ、倭国のうちで戦が起こることはなかったといいます。
施薬院や療病院を設置する優しさ、外交におけるしたたかさ、国の未来を見据えて行動する聡明さ。
聖徳太子の存在があったからこそ、日本は国際国家としての基盤を整えることができたのかもしれません。
興味をもった方は、ぜひ聖徳太子の伝記や考察本なども読んでみてくださいね。まだまだ聖徳太子にまつわる興味深いエピソードがたくさん出てきますよ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。


